スポーツのまち甲子園をもっと楽しむ 甲子園スタイルガイド 2024 SUMMER

100年の歴史を辿って甲子園の魅力を再発見!

100年の歴史を辿って甲子園の魅力を再発見!

2024年8月1日に開場100周年を迎える阪神甲子園球場。かつて球場周辺には、あらゆるスポーツ施設や遊園地が立ち並ぶ夢のレジャーランドが広がっていたことをご存じですか? Part1では甲子園エリアの歴史を研究している武庫川女子大学名誉教授の丸山健夫先生をお招きし、甲子園の「昔」の姿に迫ります。

スポーツ王国だった
甲子園の歴史に迫る

Closer to the history of Koshien

兵庫県西宮市との合併前、武庫川、枝川、申川(さるがわ)の3つの河川に囲まれたエリアは鳴尾村と呼ばれていました。そんな鳴尾村一帯を一大リゾート地にしようと構想していたのが、阪神電気鉄道(以下「阪神電鉄」という)の当時の代表取締役・三崎省三(せいぞう)氏です。西側に流れていた枝川と申川の跡地を兵庫県から購入し、球場をはじめとする「スポーツとレジャーの王国」を築き上げていきました。戦後ほとんどの施設はその機能を失ってしまいますが、たった一つ残されたのが阪神甲子園球場だったのです。

大阪市所蔵航空写真(1942年)

高まる野球熱に応える
世界最大級の球場が誕生

球児たちの憧れの舞台である全国高等学校野球選手権大会(当時は全国中等学校優勝野球大会)。第1、2回大会は大阪府の豊中グラウンドで開催されましたが、敗者復活戦を実現するため1917年に、2つの野球場を持つ鳴尾運動場へと会場を移します。その後、学生野球の人気はますます高まり、第9回大会では観客がグラウンドになだれ込むというトラブルが発生。ちょうどその頃、阪神電鉄は枝川と申川の跡地を購入しており、その場所に新会場を建設することを決意します。翌年の第10回大会に間に合うよう急ピッチで工事が進められ、1924年8月1日についに「甲子園大運動場(現在の阪神甲子園球場)」がオープン。連日超満員の観客が集まり、「高校野球の聖地」としての道を歩み始めるのです。

甲子園大運動場

野球だけじゃなかった!?
夢のレジャーランドに発展

球場を先駆けに、その後も鳴尾村には数多くのスポーツ施設が誕生しました。2万人規模の競技場「甲子園南運動場」では、陸上競技のほかラグビーやサッカーの国際試合を開催。今の高校にあたる旧制中学の全国大会の会場にもなりました。テニスにおいては国際試合ができるほど大きな「センターコート」を用意。近隣には102面の練習コートが設けられました。水泳も盛んで甲子園浜の海水浴場では水泳教室が開かれ、海でできない競泳のために「浜甲子園プール」をオープン。さらに球場には温水プールが設置され、球場の隣には飛び込み台を備えた「甲子園大プール」も誕生しました。ほかにも鳴尾競馬場やゴルフ場など、鳴尾村はあらゆるスポーツを楽しめるレジャーランドとして発展していきました。

海に沈んだ遊園地
阪神パーク

Hanshin Park sunk into the sea

甲子園筋を南に進んだ突き当たりの海岸沿い。かつてこの場所に「阪神パーク」という遊園地が存在していました。実はららぽーと甲子園の場所にあった「阪神パーク」は2代目で、初代は海岸沿いにあったのです。電気仕掛けの最先端の絶叫マシンや、動物を放し飼いにするという日本で草分けの動物園。世界最大級の大水槽やゴンドウ鯨を8頭飼育した水族館も併設されました。ところが戦時中、その場所に海軍の飛行場が作られることになり、閉園へと追い込まれます。戦後は園内を縦断するように堤防が作られ、全体の約1/3が海に沈んでしまいました。しかしその形跡は今でも、海底からまるで古代遺跡のように現れます。干潮時にだけ見られる「海に沈む遊園地」からは、昭和初期の子どもたちの歓声が聞こえてきそうです。

阪神電鉄の三崎省三氏の構想により、レジャーランドとして発展を続けた鳴尾村。球場をその第一号施設としながらも、野球だけに留まらずラグビーやサッカー、テニス、水泳などあらゆるスポーツの舞台を枝川沿いに作り上げていきました。海岸沿いには最先端の遊園地もあり、それらをつなぐように走っていたのが阪神電鉄の路面電車。戦争さえなければ甲子園エリアは、日本のありとあらゆるスポーツの聖地となっていたのかもしれません。

画像提供:阪神電気鉄道株式会社

甲子園の歴史を
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